表紙  前文  本文



1:今日(きゆ)ぬ誇(ふく)らしゃや

何(なう)に如何(ぢゃ)名(な)立(た)てぃる

莟(つぃぶ)でぃ居(うぅ)る花(はな)ぬ

露(つぃゆ)来会(ちゃ)た如(ぐとぅ)

 

1:To what shall I compare my heart

That overflows with joy today?

It is a budding flower touched

By the pearls of morn’s dew.

 

大意:今日の喜びを何にたとえようか。蕾の花が露に出会ったような感じである。

 

※「かぎやで風(かぢゃでぃふう)」の歌詞として有名である。沖縄人でこの琉歌を聞いたことのない人はいないだろう。「今日」の現代的発音は、今日(ちゅう)であるが、この歌では昔のままに、今日(きゆ)となっている。2句目は難解であるが私の解釈である。この歌にはおよそ500年前の王位継承にまつわるエピソードがあるが、おそらく伊勢物語同様の創作であろう。なぜなら、2句目の意味さえ現在ではきちんと解釈できないからである。なによりも、500年前の琉球語とは考えにくい。莟(つぃぶ)ぬん、は動詞である。一般的には、莟(ちぶ)むん、である。居(うぅ)るの発音は「wuru」である。「露」は首里ことばでは、「つぃゆ」であるが、一般的には、露(ちゆ)である。ユーチューブで「かぎやで風(かぢゃでぃふう)」の演奏を聞くと、ほとんどの人が、莟(ちぶ)でぃ、居(う)る、露(ちゆ)と発音している。「誇(ふく)らしゃ」は、共通語の「誇らしい」とは意味が離れているようである。英訳では、「喜びであふれる私の心」となっている。「露」が英訳では、「朝露の真珠」となっている。音節の数は同じであっても、英語の場合、子音の数が多い分だけ琉球語よりも多くの表現ができるようだ。

 

2:恩納岳(うんなだき)彼方(あがた)

里(さとぅ)が生(う)まり島(じま)

森(むい)ん押(う)し退(ぬ)きてぃ

此方(くがた)成(な)さな       (恩納ナビ)

 

2:Beyond the mountain of Un-na

Lies the valley of my lover.

I wish to push the hill aside

And have him by my side!   (Un-na Nabii)

 

大意:恩納岳の向こう側は愛する男の生まれ育った村である。山も押し退けてこちら側に

   持って来られたらなあ。

 

※里(さとぅ)は女の側から見た男の恋人である。英語では、「lover」である。男の側から

見た女の恋人は、無蔵(んぞ)、あるいは、萎(しゅ)ら、である。英語では、「love」、あるいは、「sweetheart」である。「森(むい)」は「盛(む)い」であり、大きく盛り上がった所をいう。森というよりも小さな丘である。「森」という漢字を当てるのは適切ではないがほかに適当な漢字が見当たらない。成(な)さな、の「な」は、動詞の未然形に接続して希望の意味をあらわす。「aside」と「side」が脚韻である。この歌と比較される万葉集の歌がある。万葉集・3724、「君が行く道の長路(ながて)を繰(く)り畳(たた)ね焼き亡ぼさむ天(あめ)の火もがも」。作者は、狭野弟上娘子(さののおとがみのをとめ)、恩納ナビと同じく女流歌人である。

 

3:明日(あちゃ)からぬ明後日(あさてぃ)

里(さとぅ)が番上(ばんぬぶ)い

滝(たき)成・鳴(な)らす雨(あみ)ぬ

降(ふ)らな有(や)しが         (恩納ナビ)

 

3:Two days more after tomorrow

Up to town you go for duty.

May torrents of rain fall for days

And keep you here those day!   (Un-na Nabii)

 

大意:明日から数えてのあさっては私の愛する男の仕事の番である。滝のような雨が降っ

   てくれたらなあ。

 

※「あちゃからぬあさてぃ」は、ここちよい調子のことばである。歌以外に日常使われていた言葉ではないかもしれない。番上りは何の番であろうか。「滝成らす」と「滝鳴らす」を掛けたようである。大雨が降ると番上りが延期されるのであろう。大雨が降ることを期待しているのである。「な」は終止形に接続すると、禁止をあらわすが、未然形に接続すると、希望をあらわす。「降るな」に相当する琉球語は、「降(ふ)いんな」、「降(ふ)んな」のようになる。「rain fall」の「fall」には、「降る」という意味と「滝」という意味の両方がある。平良文太郎は楽しみながら訳している印象がする。

 

4:恩納松下(うんなまつぃした)に

禁止(ちじ)ぬ碑(ふぇ)ぬ立(た)ちゅし

恋忍(くいしぬ)ぶ迄(までぃ)ぬ

禁止(ちじ)や無(ね)さみ         (恩納ナビ)

 

4:Under the pine trees at Un-na

A sign commands: No Rendezvous.

Did they really expect it would

 Stay the flow of our love?        (Un-na Nabii)

 

大意:恩納の役場の松の下に、禁止の高札が立っているが、恋愛を禁止するという高札が

   あるのであろうか。

 

※禁止(ちじ)ぬ碑(ふぇえ)、は「琉和辞典」参照。時代劇を見た人なら高札(こうさつ)はご存じのはず。英訳では「sign」となっている。看板、立札のことである。「rendezvous」は、フランス語で「約束、デート」のこと。「No Rendezvous」で「デート禁止」という意味。英訳は立札の内容まで踏み込んでいる。実際にそのような禁止の札があったのなら現代では考えられないことである。「rendezvous」と「love」がすこし脚韻的である。

 

5:波(なみ)ぬ声(くぃ)ん止(とぅ)まり

風(かじ)ぬ声(くぃ)ん止(とぅ)まり

首里天愛(しゅいてぃんぢゃな)しい

美御気(みゅんち)拝(うぅ)がま     (恩納ナビ)

 

5:Stop rolling, O waves, stop rolling!

Stop blowing, O wind, stop blowing!

Now we hail with hearty welcome

 Our gracious King from Shuyi.      (Un-na Nabii)

 

大意:波の声も止まれ、風の声も止まれ、尊敬すべき首里の国王様の御機嫌を伺おう。

 

※天愛(てぃんぢゃな)しい、は琉球国王の敬称。「ぢゃなしい」は、通常「加那志」と表記される。美御顔・美御気(みゅんち)は、「琉和辞典」参照。拝(うぅ)がま、の発音は、「wugama」である。歌の意味はおのずから明らかである。「rolling」と「blowing」が脚韻である。

 

6:良(ゆ)かてぃ然(さ)み姉部(あにび)

凌(しぬ)ぐ為(し)ち遊(あすぃ)でぃ

吾達(わした)世(ゆ)に成(な)りば

御止(うとぅ)み為(さ)りてぃ

 

6:How I envy you, our sisters                     How I envy you, our sisters

You could revel in festive dance.                 You could revel in festive dance.

We are forbid to do the same                    We are forbidden to to the same

  I time of festival.         (Un-na Nabii)         A time of festival.

                   

大意:お姉さん達の頃はよかったであろう。しのぐ遊びをしてストレス発散できて。私達

   の今はそれが禁止になってしまった。

                                      

※凌(しぬ)ぐ、は「琉和辞典」を参照。英訳では、「festive dance」となっている。適訳である。「forbid」は文法上「forbidden」でなければならない。音節の数も変わらない。最終句の「I」は、おそらく、「A」であろうと思われる。右側は私が訂正した訳である。

 

7:飛(とぅ)び立(た)ちゅる蝶(はびる)

先(ま)じゆ待(ま)てぃ連(つぃ)りら

花(はな)ぬ本(むとぅ)吾(わん)や

知(し)らん有(あ)むぬ         (本部按司)

 

7:Dear butterfly, don’t fly away!

Please wait for me to go with you;

Because I know no proper ways

 Of gathering roses.           (Prince Mutubu)

 

大意:飛び立つ蝶よ、ちょっと待ってくれ一緒に行こう。花の場所がどこか私には分から

   ないのだから。

 

※蝶(はびる)は、「侍(はべ)る」が語源らしい。「蝶(はびる)」は、「蝶(はべる)」の文語。花は何の花かわからないが、英訳では、「rose」となっている。英語のイメージはそうなのだろう。按司を「prince」と訳しているがこれも適訳である。「away」と「ways」が脚韻的である。この歌は茶会での即興の歌らしい。蝶(はびる)は、案内人の比喩であり、蝶(はびる)は、まさに、侍(はべ)る、なのである。

 

8:我胴(わどぅ)やちょん我胴(わどぅ)ぬ

儘(まま)成(な)らん世界(しけ)に

彼(あ)りゆ恨(うら)みゆる

由(ゆし)ぬ有(あ)るい         (本部按司)

 

8:In a world full of obstacles,

One cannot steer his course at will.

Why should I think ill of others,

 When they fail to suit me?        (Prince Mutubu)

 

大意:自分の身でさえ自分でどうすることもできないこの世界で、あの人を責める理由が

   どこにあろうか。

 

※胴(どぅう)、は体の一部であるが、体全体をさすようになった。我胴(わどぅ)は、私の体、つまり自分自身のことである。琉歌は、音数を合わせるために音の縮約が多い。「我胴」の発音は本来「わあどぅう」である。彼(あ)りゆ、の「ゆ」は、共通語の「を」にあたる助詞であり、目的格をあらわす。「ゆ」は、詩語であり会話では使わない。琉球語は

目的格をあらわす助詞が必要ないのである。日本語の共通語も、もともとは、目的格の「を」がなかった。漢文の影響である。漢文訓読ではどうしても目的格の「を」が必要なのである。それが日常会話にも影響を与えたらしい。

 

9:浮世(うちゆ)馴(な)り染(す)みぬ

我(わ)が心(くくる)長(なげ)な

静(しず)か持(む)てぃ成(な)しゅる

年(とぅし)ぬ恨(ら)めしゃ       (本部按司)

 

9:Once my heart was brave and active

In pursuit of social pleasures.

But now I merely vegetate;

    Ah, I have grown so old!       (Prince Mutubu)  

 

大意:浮世に慣れ親しんだ我の心が長く続いたらなあ。静かに無為な生活をおくる年にな

   った自分が恨めしい。

 

※長(なげ)な、は長くあってほしいと解釈した。持(む)てぃ成(な)しゅん、は共通語の「持て成す」とは意味が離れているようだ。「取り扱う」という感じである。恨(ら)めしゃ、は恨(うら)めしゃ、が短縮された形で、6音にするためである。恨(ら)めしゃ、は琉歌でよく使われる語である。「vegetate」は「草木に等しい単調な生活をおくる」という意味で適訳である。

 

10:走(は)い川(かわ)ぬ如(ぐとぅ)く

   年波(とぅしなみ)や立(た)ちゅい

   繰(く)い戻(むどぅ)ち見欲(みぶ)しゃ

   花(はな)ぬ昔(んかし)

 

10:As a stream that rapidly flows

      My life quickly fleets into age.

      I wish I could retrace my ways

       To my old merry days!

 

大意:走り行く川のように年の波は(経・立)って行く。繰り戻して見たいものだ、花の   

   ような昔を。

 

※年は「経(た)つ」、波は「立(た)つ」、と掛けているようだ。「立(た)ちゅい」の「い」は、疑問の助詞である。歌意はおのずから明らかである。「ways」と「days」が脚韻である。

 

11:惜(あたら)人間(にんじん)に

   生(う)まり有(や)い居(うぅ)しが

   安々(やすぃやすぃ)とぅ暮(く)らす

   暇(ふぃま)ぬ無(ね)らん

 

11:Although I came into this world,

      As a lord of all creation,

      How little free time I have had

       To spend in peace and play!

 

大意:せっかく人間に生まれておきながら、生活を楽に暮らすこともなく、自由な時間を

   もつこともない。

 

※惜(あたら)し、は共通語の古語で、「立派だ」「すばらしい」「もったいない」などの意味がある。琉球語の「惜(あたら)しゃん」は「大事である」「手離せない」などの意味がある。だいたいにおいて同じ意味のようである。共通語の古語には、「新(あらた)し」、という語があったが、「惜(あたら)し」との混同がおこり、「あたらし」は、「新(あたら)しい」という意味に吸収されてしまった。「little free time」は、暇な時間が少しもないという意味である。

 

12:誰(たる)が先(さち)成(な)ゆら

   定(さだ)まらん世界(しけ)や

   日々(ふぃび)ぬ言語(いかた)れどぅ

   遺言(いぐん)然(さ)らみ

 

12:Who shall leave life first, you or I ?

      Death pays no respect to our age.

      None can say that our present talk

       May not be our last words.

 

大意:誰が先になるのやら、そんなことは決まっていない世界では、日々の語らいが遺言

   なのだろう。

 

※然(さ)らみ、は「〜であろう」という意味の助詞である。語源は、「然(さ)有(あ)らめ」だと思われる。歌意はおのずから明らかである。

 

13:夢(いみ)ぬ世(ゆ)ぬ中(なか)に

   何(ぬ)がし世話(しわ)召候(みしぇ)る

   只(ただ)遊(あすぃ)び召候(みしょ)り

   御肝(うちむ)晴(は)れてぃ

 

13:Why should you keep on worrying

      In such a transitory life?

      Spend your time in merriment

       Forgetting ev’ry care.

 

大意:夢のようなこの世の中で何を心配なさっているのですか。ひたすら遊んでください。

   心晴れ晴れと。

 

※世話(しわ)は、共通語とは意味が離れ、「心配」の意。「召候(みしぇ)る」、「召候(み

しょ)り」は敬語。それぞれ、「〜しなさる」、「〜してください」の意。「肝(ちむ)」は共通語の「心」に相当する。「肝」は肝臓、「心」は心臓である。合わせて「心肝」である。「ev’r

y」は、「every」である。これはたぶん音節を短縮する意図と思われるが、「ev'ry」も「every」もともに二音節である。

 

14:今年(くとぅし)物作(むづく)いや

   彼(あ)ん清(ちゅ)らさ良(ゆ)かてぃ

   倉(くら)に積(つぃ)み余(あま)ち

   真積(まづぃ)ん為侍(しゃび)ら

 

14:How plentiful and abundant

      The bumper harvest of the year!

      It will fill all the granaries

       And give us stacks besides.

 

大意:今年の作物はあんなにも見事な出来栄えで、倉に積んでもなお余り、倉の外に高々

   と積もうではないか。

 

※物作(むづく)い、は農作業、農業のことである。積み上げることを、真積(まづぃ)

むん、という。真積(まづぃ)む・真積(まづぃ)ん、真積(まぢ)ん、は共通語の稲叢(いなむら)のことだと思われる。

 

15:稲(ぃんに)や刈(か)い広(ふぃる)ぎ

   乾(ふ)し枯(か)りや為(し)ちゅい

   良(ゆ)かる日(ふぃ)ゆ選(いぃ)らでぃ

   真積(まづぃ)でぃ御祝(ういうぇ)

 

15:The rice we cut and spread about

      Is thoroughly dry and ready.

      Let us select one golden day

       To make stacks and rejoice.

 

大意:稲は刈り広げてよく乾燥したであろうか。吉日を選んで積み上げてお祝いをしよう。

 

※稲(ぃんに)や、の「や」は、共通語の「は」に相当する助詞である。乾(ふ)し枯(か)り、は焚(た)き木などがよく乾いて枯れていることにも使うようだ。稲はよく天日干しした自然乾燥の方がおいしいらしい。昔の米はさぞおいしかったことであろう。昔の人は何事にも良い日を選んだらしい。現代人にも日にこだわる人はいまだに多いようである。日(ふぃ)ゆ、の「ゆ」は共通語の「を」に相当する助詞である。「ゆ」はいわゆる詩語であり、日常の会話では使わない。なぜなら、琉球語は、目的語をあらわす「を」が必要ないからである。詩の場合、音数を合わせるために必要なのである。「cut」も「spread」もともに過去形である。

 

16:夏暗(なつぃぐ)りぬ過(すぃ)ぢてぃ

   露(つぃゆ)ぬ玉(たま)結(むすぃ)ぶ

   庭(にわ)ぬ撫子(なでぃしく)ぬ

   花(はな)ぬ清(ちゅ)らさ

 

16:How graceful and beautiful is

      The fringed pink in the garden,

      With dew-drops like unnumbered pearls,

       After the summer’s shower!

 

大意:夏のにわか雨が過ぎて玉のような露を置く庭のなでしこの花のしとやかな美しさ。

 

※夏暗(なつぃぐ)り、はにわか雨のこと。沖縄の夏のにわか雨はほんとうに真っ暗である。意外であるが、英語の「shower」は、もともと「にわか雨」のことである。「シャワー」はまさに「にわか雨」である。「英訳琉歌集」では、琉歌が、一句一句対応して英語に訳されているわけではない。この歌を見ればわかるように、一番最初の「夏暗(なつぃぐ)り」が英訳では一番最後に「summer’s shower」となって現れる。この傾向は60歌すべてにわたって見られ、一句一句対応して英訳を見てはいけない。一つの琉歌が一つの英語の詩となって訳されているのである。これも意外であるが、「pink」は、もともと「なでしこ」のことである。「orange」は、もともと「みかん」のことである。植物名が色の名となったのである。「玉」が「pearl」と訳されていて適訳である。「なでしこ」は「石竹」とも書かれ、万葉集では5首に登場する。

 

17:傘(かさ)に音(うとぅ)立(た)てぃてぃ

   降(ふ)たる夏暗(なつぃぐ)りや

   今(なま)や打(う)ち晴(は)りてぃ

   太陽(てぃだ)ぬ照(てぃ)ゆさ

 

17:Pattering on the umbrella,

      The summer shower came quickly:

      As quickly it has departed;

       The bright sun is shining.

 

大意:傘に音を立てて降った夏のにわか雨は、今はうそのようにすっかり晴れて太陽がか

   がやいている。

 

※歌の意味はおのずから明らかである。「umbrella」はラテン語の「umbra(陰)」が語源である。沖縄の夏の雨はほんとうにあっという間に晴れる。

 

18:常盤(とぅちわ)なる松(まつぃ)ぬ

   変(か)わる事(くとぅ)無(ね)さみ

   何時(いつぃ)ん春(はる)来(く)りば

   色(いる)どぅ勝(まさ)る

 

18:O ever green pines, ever green!

      Your color remains ever true.

      When the spring comes to us again

       Ever greener you grow.

 

大意:いつまでも変わることのない松は変わることはないだろう。いつも春が来ると緑が

   いっそうきわだつ。

 

※常盤(ときわ)なる、は盤石な石のように不変であるという意味の大和言葉。琉歌では、大和言葉を借用することがしばしばである。言葉自体も大和風になることが多い。来(く)りば、も大和言葉風である。已然形のようでもあり、未然形のようでもある。「色(いる)どぅ」の「どぅ」は大和言葉の「ぞ」に相当する強意の助詞で動詞の連体形で結ぶことが多い。「pine」は、「松」。沖縄で、「pine(パイン)」といえば、「pineapple」のこと。形が「松のかさ」に似ているから。

 

19:子孫(っくぁ,ぅんまが)揃(する)てぃ

   願(にが)た事(くとぅ)叶(かな)てぃ

   大主(うふぬし)ぬ百歳(ひゃくせ)

   御祝(ういうぇ)為侍(しゃび)ら

 

19:Waited upon by your offspring,

      With your wishes all realized,

      You have lived to be a hundred.

       Here’s congratulation!

 

大意:子ども達孫達が揃って、願い事も叶って、あなたの百歳のお祝いをしましょう。

 

※大主はお祝いされる登場人物に対する敬称だと思われる。人間100歳を越えれば誰でも「大主(うふぬし)」である。子孫(こまご)は、文字通り、子孫(しそん)のこと、英語では、「offspring」である。「spring」のもともとの意味は、「飛ぶ」、「跳ねる」などである。「生き物が飛び跳ねる季節」から「spring(春)」の意味となった。また、「spring(バネ)」は、「飛び跳ねるもの」である。子孫は「飛び出る」から「offspring」である。

 

20:六七十(るくしちじゅう)成(な)てぃん

   年(とぅし)読(ゆ)でぃどぅ知(し)ゆる

   如何(いちゃ)為(し)がな肝(ちむ)や

   何時(いつぃ)ん童(わらび) 

 

20:Three score and ten are but numbers.

      We count our age by the numbers.

      But we still feel as young at heart

       As when we were children.

 

大意:六十、七十になっても数えてから自分の年を知るのである。どうにかして、心はい

   つも子どもの時のままでいたい。

 

※如何(いちゃ)為(し)がな、は「どうにかして」の意。口語では、如何(ちゃあ)がな為(っし)、である。肝(ちむ)は、「心」のこと。「score」は、「20」のことであり、見事な訳である。

 

21:嘉例吉(かりゆし)ぬ遊(あすぃ)び

   打(う)ち晴(は)りてぃからや

   夜(ゆ)ぬ明(あ)きてぃ太陽(てぃだ)ぬ

   上(あ)がる迄(までぃ)ん

 

21:As this auspicious gathering

Has swung into its proper rhythm,

Let us make a gay night of its

Until the sun appears.

 

大意:縁起の良いめでたい遊びの集まりが調子よく高まったので、夜が明けて太陽が昇る

   まで続けよう。

 

※嘉例吉(かりゆし)は、めでたいこと。縁起のいいこと。よく耳にする言葉である。「琉和辞典」参照。「嘉例(かれい)」は、平家物語にも見える。この語が分かれば、歌意はおのずから明らかである。

 

22:夜(ゆ)ぬ明(あ)きてぃ太陽(てぃだ)や

   上(あ)がらわん良(ゆ)たしゃ

   巳(み)ん間時(まどぅち)迄(ま)でぃや

   御祝(ういうぇ)為侍(しゃび)ら

 

22:What if the dawn begins to grow

      And the sun makes its appearance?

      This occasion we’ll celebrate

       Till ten or on and on.

 

大意:夜が明けて太陽が昇ってもかまわない。午前10時あたりまではお祝いしよう。

 

※巳(みい)は、午前10時。この語が分かれば、歌意はおのずから明らかである。

 

23:干瀬(ふぃし)に居(うぅ)る鳥(とぅい)や

   満(み)ち潮(しゅ)恨(うら)みゆい

   我身(わみ)や暁(あかつぃち)ぬ

   鶏(とぅい)どぅ恨(うら)む

 

23:The birds basking on a dried reef

      Will resent the encroaching tide.

      I resent the cross chanticleer,

       Who announces the dawn.

 

大意:干潟(ひがた)の鳥は満ち潮を恨むのだろうか。私は、暁を知らせる鶏こそ恨む。

 

※恨(うら)みゆい、の「い」は、疑問の助詞である。「dawn(あかつき)」を知らせる鶏を恨むということは、男女の後朝(きぬぎぬ)の別れのことだろう。朝が来れば別れなければならない仲なのである。「chanticleer」は雄鶏のこと。「cross」は十字架のことである。男女の明け方の別れをキリストの受難のごとくにたとえているようだ。

 

24:鶏(とぅい)や歌(うた)らわん

   夜(ゆ)や明(あ)きてぃ呉(くぃ)るな

   稀(ま)りぬ手枕(てぃまくら)ぬ

   語(かた)れでむぬ

 

24:May the day never visit us!

      Though the cock may crow at daybreak:

      I am with my treasure tonight

       After a long absence.

 

大意:たとえ鶏が鳴いたとしても夜は明けてくれるな。ひさびさの手枕での語らいだから。

 

※歌意はおのずから明らかである。「三千世界のからすを殺し主(ぬし)と朝寝がしてみたい」という都都逸(どどいつ)がある。

 

25:花当(はな)たいぬ里前(さとぅめ)

   花(はな)持(む)たち給(たぼ)り

   花(はな)持(む)たさ選(ゆ)りか

   御胴(うんぢゅ)居参(いも)り

 

25:Dear gard’ner, in charge of the gard’n,

      Please send me my favorite flowers;

      Or better, come to me yourself

       Instead of the flowers.

 

大意:接待係を勤めるあなた、花を届けて下さい。花を届けるよりもやはりあなたが来て

   ください。

 

※花当(はな)たい、は王室内の接待係。美少年(イケメン)が多かったらしい。「琉和辞典」参照。「英訳琉歌集」の作成時には、「沖縄語辞典」がなかった。「はなたい」が、「gardener」と訳されているが、「attendant」といった感じである。「gard’ner」、「gard’n」は見た目の音節を減らすためか。里前(さとぅめ)は男性に対する敬称である。「給(たぼ)り」は、「〜してください」の意。御胴(うんぢゅ)は二人称敬称。居参(いめえ)ん、は「いらっしゃる」の意。給(たぼ)り、居参(いも)り、ともに命令形である。「花」が頭韻。「り」が脚韻である。これは、王女が花当(はな)たい[接待係]を恋する歌らしい。

 

26:何(ぬ)が為(すぃ)酷(どぅ)く里(さとぅ)や

   恋(くい)に義理(ぢり)立(た)てぃる

   高(たか)さ有(あ)る木垣(きがき)

   露(つぃゆ)や降(ふ)らに

 

26:Why are you so custom-bound in love,

So conscious of rank and station?

Ev’n the tops of the highest hedge

 The morning dew visits.

 

大意:どうしてこうもあなたは恋と義理とをいっしょに扱おうとするのか。高い木垣には

   露が降りないと思うのか。

 

※何(ぬ)が為(すぃ)は、「いかにして」、「どうして」の意。酷(どぅ)く、は「あんまり」、「ひどく」、「過度に」の意。恋の相手の男性は、道徳・習慣・地位・名誉などをいつも意識しているようである。これらを「義理」という一語で表現しているのである。(英訳がそうである。)そのようなものには、露が降りるばかりであると言いたいのである。現代人はこれに「お金」が加わるようである。「恋」と「義理」、永遠の課題である。これも前歌同様、王女の花当(はな)たい[接待係]に対する恋の歌らしい。前歌では、「里前(さとぅめ)」という敬称だったのが、ここでは、「里(さとぅ)」となっている。そういう関係になったことが推測できる。

 

27:浅地(あさじ)染(す)みらわん

   紺地(くんじ)染(す)みらわん

   里(さとぅ)儘(まま)どぅ有(や)ゆる

   我身(わみ)や白地(しるじ)

 

27:Dye me light blue if you like;

      Dye me dark blue if you wish.

      All depends upon your will,

       I’m yours immaculate.

 

大意:浅地に染めようとも、紺地に染めようとも、あなたの思いのままですよ、私は白地。

 

※歌意はおのずから明らかである。里(さとぅ)は、女の側からの男の恋人。「dye」は「染める」という意味である。発音は、「die」と同じである。「immaculate」は、「純潔な」・「無垢な」という意味で適訳である。これまでの訳語から、平良文太郎はキリスト教をよく勉強されている感じがする。(もしするとクリスチャン?)

 

28:染(す)みゆらば迚(とぅ)てぃん

   小烏(くがらすぃ)ぬ如(ぐとぅ)に

   浅地(あさじ)どぅん有(や)らば

   許(ゆる)ち給(たぼ)り

 

28:If you want to dye me at all,

Dye me as dark as crow’s feather.

  If you want to dye me but light,

   Do not touch me at all.

 

大意:染めようと思うならば小ガラスのように真っ黒に。浅く染めようと思うならば、ど 

   うかそのままにしておいて下さい。

 

※1句目がやや難解であるが、全体の意味は、「本気の恋であるならばとことんお受けするが、軽い気持ちならきっぱりとお断りします。」という意味であろう。いわゆる「All or nothing」である。

 

29:無蔵(んぞ)一人(ちゅい)が故(ゆい)に

   親(うや)迄(までぃ)ん愛(かな)しゃ

   庭(にわ)ぬ間塞垣(ましがき)ぬ

   匂(にうぃ)ぬ萎(しゅ)らしゃ

 

29:Because of you, my lovely lass,

      Your parents, too, are dear to me.

      Even the flowers on your hedge

       Smell sweeter than elsewhere.

 

大意:あなた一人のために親までも愛(いと)しい。庭の垣根の花々までも匂うように美

   しい。

 

※無蔵(んぞ)は、男の側からの女の恋人。これが当て字でなければ、恋人はまさに「無蔵(むぞう)の美しさ・喜び」である。「lass」は、女の恋人。「愛(かな)し」は、愛(いと)しい、という意味で、共通語の古語でも同じ意味である。この語から「加那志」という敬称語ができた。間塞垣(ましがき)は、竹や木で密に作った垣。「萎(しゅ)らしゃ」は共通語の「しおらしい」と同語源だとおもわれる。琉球語では「うつくしい」という意味。

 

30:初(はじ)みてぃどぅ有(や)しが

   斯(か)に愛(かな)しゃ有(あ)るい

   生(ぅん)まりらん先(さち)ぬ

   御縁(ぐいん)有(や)たら

 

30:This is the first time we have met;

      Yet, how attached I feel to you!

      The karma may have made us so

      Ages ere we were born.

 

大意:初めて会ったけれどもこんなにも愛しいものか。生まれる前からの縁であったのだ

   ろう。

 

※有(あ)るい、の「い」は疑問の助詞。「愛(かな)しゃ」は前歌参照。「縁(えん)」は仏教用語であり、「karma(カルマ)」と訳されている。キリスト教にはない考え方である。もともとは、「サンスクリット語」である。「attached」は、「愛しい」という意味。「ere」は、詩語であり古語である。意味は「〜の前から」、音数を合わせるために「before」が使えないのである。

 

31:忘(わすぃ)らんでぃ為(す)りば

   御情(うなさ)きや深(ふか)さ

   思切(うみち)らん為(す)りば

   思(うみ)どぅ勝(まさ)る

 

31:Your love’s too deep to be forgot.

      The more I try to flee from you,

      The tighter still becomes the tie

       That binds us together.

 

大意:忘れようとすれば、私へのあなたの思いの深さがよみがえる。別れようと思えば、

   いっそうあなたへの思いが深まるばかりである。

 

※「御情(うなさ)き」とあるから、「あなたの私に対する思い」と解釈できる。「love’s」は、「love is」の省略。音数を省くためである。歌意はおのずから明らかである。

 

32:昔(んかし)手(てぃ)に汲(く)だる

   情(なさ)きから出(ぃん)じてぃ

   今(なま)に流(なが)りゆる

   許田(ちゅだ)ぬ手水(てぃみずぃ)

 

32:In sympathy with storied lass

      Who let her lad drink from her hands,

      ‘Tis ever freely flowing forth,

       The sweet spring of Chuda.

 

大意:昔、女の人が思いを込めて手に汲んだという伝説が脈々と流れる許田の泉で今もな

   お同じ気持ちで手水をする。

 

※許田(きょだ)は、名護市の地名、道の駅で有名。手水の伝説は、ネットで読むことができる。この伝説をモデルとして平敷屋朝敏の「手水之縁(てみずのえん)」は書かれた。難しい言葉は使っていないが、背景があるせいかどうも難解である。「storied」は、「伝説で名高い」の意。「‘Tis」は、「It is」の略。徹底して音数を合わせているのである。「spring」のもともとの意味は、「飛ぶ」、「跳ねる」などである。「泉」は、「飛び跳ねる」ものである。

 

33:浦浦(うらうら)ぬ深(ふか)さ

   名護浦(なぐうら)ぬ深(ふか)さ

   名護(なぐ)ぬ美童(みやらび)ぬ

   思(うむ)い深(ふか)さ

 

33:Deep goes inlet after inlet,

      Deeper to the bay of Nagu.

      And as deep is the heartfelt love

       Of the maids of Nagu.

 

大意:入り江入り江の深さ、名護湾の深さ、名護の若い乙女の心の深さ。

 

※浦(うら)は、入り江のこと。英語では、「inlet」。海が深いというよりも、入り江、湾のくいこみ方が深いという意味であろう。歌の意はおのずから明らかである。現在は整備されていてそうではないが、私が小学校のころの、名護の七曲りの入り江のくいこみはハンパではなかった。繰り返しが多いが、「う」と「な」が頭韻。「さ」が脚韻である。一度聞いたら忘れられない歌である。

 

34:思(うむ)ゆらば里前(さとぅめ)

   島(しま)尋(とぅ)めてぃ居参(いも)り

   島(しま)や中城(なかぐすぃく)

   花(はな)ぬ伊舎堂(いしゃど)

 

34:If you love me in good earnest,

      Come to my home to seek my hand.

      My home’s in Nakagusiku,

       That playful Ishado.

 

大意:私のことを思ってくれるのなら村を尋ねて来てください。私の村は中城の木綿の花

   咲く伊舎堂です。

 

※「思う」を「love」と訳している、そうなのであろう。「里前(さとぅめ)」は、男性への敬称。「島」は、「村」のこと。「居参(いも)り」は、「いらっしゃい」の意。(「尋(とぅ)めえゆん」は、「尋ねる」、「求める」、「探す」などの意。地名が二つ登場する。伊舎堂(いしゃどう)は、中頭郡中城村の地名で、明治中期まで木綿の産地であったらしい。「My home’s」は、「My home is」の短縮。「花(はな)ぬ」は、「遊びの盛んな」という意味があるらしい。

 

35:謝敷(じゃじち)板干瀬(いたふぃし)に

   打(う)ちゃい引(ふぃ)く波(なみ)ぬ

   謝敷(じゃじち)美童(みやらび)ぬ

   目笑(みわ)れ歯口(はぐち)

 

35:Upon the reefs of Jajichi

      I see the surfs breaking in foam.

      They are like the teeth of maidens

       Smiling on Jajichi beach.

 

大意:謝敷板干瀬(じゃじちいたびし)に打ちつけたり引いたりする波は、謝敷の乙女が

   微笑んでいる時の歯のようである。

 

※謝敷(じゃしき)は、国頭郡国頭村の地名。謝敷板干瀬(じゃじちいたびし)は、文字通り、岩が板を斜めに重ねたようなビーチロックである。それが乙女の歯のようである、と形容しているのである。この比喩が適切かどうかは実際に見て判断するしかない。自然というのはそれほど身近なものだったのだろう。

 

36:伊野波(ぬふぁ)ぬ石小坂(いしくびり)

   無蔵(んぞ)連(つぃ)りてぃ登(ぬぶ)る

   今少(にゃふぃ)ん石小坂(いしくびり)

   遠(とぅ)さは有(あ)らな

 

36:Up to the stony slope of Nufa

      For the last time I go with you.

      O that the slope were much higher

       And I could more linger!

 

大意:伊野波の石ころの小さい坂をあなたを連れて登る。もっとこの坂が長く続いたらな

   あ。

 

※この歌は、「伊野波節(ぬふぁぶし)」という琉球民謡で知られている。いい曲である。伊野波(いのは)は、国頭郡本部町の地名。小坂(くびり)は、小(く)坂(ふぃら)が縮まった形であろう。無蔵(んぞ)は、男性の側からの女性の恋人。「今少(にゃふぃ)ん」は、口語では、「今少(なあふぃ)ん」。有(あ)らな、の「な」は、動詞の未然形に接続して、希望をあらわす。遠く有ってほしいのである。英訳では、「the slope were much higher」となっている。「were」は仮定法である。過去形なら、「was」となる。「linger」は「だらだらとぐずぐずする」の意。恋人との別れが惜しいのである。ふだんは早く通り過ぎてしまいたい、石ころだらけの坂道でも、恋人といっしょならもっともっと長く続いてほしいのである。「higher」と「linger」が脚韻。

 

37:生(い)ちちゅ居(り)ば苦(くり)しゃ

   死(し)にば忘(わし)りゆら

   片時(かたとぅち)ん彼(あ)ぬ世(ゆ)

   急(いす)ぢ欲(ぶ)しゃぬ             (平敷屋朝敏)

 

37:Longer to live is pain prolonged;

      Death will bring me relief desired.

      I’d soonest leave this shore of sorrow

       And go to Nirvana!                (Chobin Fishicha)

 

大意:生きていれば苦しい、死んだら忘れられるであろうか。いっときも早くあの世に行

   きたい。

     

※歌の意はおのずから明らかである。平敷屋朝敏(へしきやちょうびん)は、文学者である。組踊「手水之縁(てみずのえん)」の作者でもある。琉球の五偉人の一人である蔡温(さいおん)の政治を批判した書状を薩摩藩の在番所に三度も投げ入れ、磔(はりつけ)の刑となった。わざと先をとがらせていない木の槍で何度も突かれた。蔡温は中国よりも薩摩藩を重視する現実的な有能な政治家ではあるが、当時の琉球はほんとうに貧しかった。農民の生活は悲惨であった。そのような政治・経済状況を批判した書状だったのである。私は体制に対して抵抗する人に親しみと共感をおぼえ、尊敬の念を抱く性分である。この琉歌は、彼の切実な歌なのである。彼だけの歌ではない。当時の農民すべての歌だったのである。

 

38:捨(すぃ)てぃる我(わ)が命(いぬち)

   露(つぃゆ)程(ふどぅ)ん思(うま)ん

   残(ぬく)る思里(うみさとぅ)や

   如何(いちゃ)が為(しゅ)ゆら      (平敷屋朝敏)

 

38:My life thread about to be cut

      Is the least care I take to heart,

      But how will my beloved fare,

       Left behind all alone?        (Chobin Fishicha)

 

大意:捨ててもいい私の命は、露ほども考えてはいない。残される愛するあなたはどうな

   るのであろうか。

 

※この歌は前歌と同じく、「手水之縁(てみずのえん)」に登場する歌のようである。思里(うみさとぅ)は、男性の恋人のことであるから、作者は女性という設定になる。歌の意味は、組踊を見るといっそう理解できるはずである。死ぬときに考えることは、自分のことではなく残される人達のことである。「捨(すぃ)てぃる」とあるからには、自ら死を選んでいるのである。

 

39:褒(ふ)みらりん好(すぃ)かん

   謗(すし)らりん好(すぃ)かん

   浮世(うちゆ)灘(なだ)安(やすぃ)く

   渡(わた)い欲(ぶ)しゃぬ        (程順則)

 

39:Neither fame nor blame I covet

      In this world of vicissitude.

      I only wish to lead my life

       In peace and sweet idleness.  (Tei Junsoku)

 

大意:褒められるのも好きではない、謗(そし)られるのも好きではない。この世は、安

   全なところを安全に渡って行きたいものだ。

 

※前の2句は、大和言葉風である。灘(なだ)は、波の高い航海の難所。歌の意はおのずから明らかである。程順則(ていじゅんそく)・名護親方寵文(なぐうぇえかたちょおぶん)は、学者で政治家。名護間切の総地頭であった。琉球の五偉人の一人。「六諭衍義(りくゆえんぎ)」を清から持ち帰る。「六諭衍義(りくゆえんぎ)」は、薩摩藩を通して、八代将軍・徳川吉宗に献上され、室鳩巣(むろきゅうそう)、荻生徂徠(おぎゅうそらい)の手により、寺小屋の教科書として普及する。程順則は、荻生徂徠と会見したことがある。名護親方は名護市が誇る偉人であり、イメージキャラクターである。歌の内容からするとやはり偉人のように思える。「ほめられもせず、苦にもされず、たいらな道を歩いて行きたい」というのは、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」と同じなのではないか。

 

40:誉(ふま)り謗(すし)らりや

   世(ゆ)ぬ中(なか)ぬ習(なれ)え

   沙汰(さた)ぬ無(ね)ん者(むぬ)ぬ

   何(ぬ)役(やく)立(た)ちゅが    (蔡温)

 

40:Fame and blame, repute and disrepute

Are the wanton ways of the world.

What worth or use has the creature

 Who has left no report?            (Saion)

 

大意:誉(ほま)れ謗(そし)られは世の中の習い。評判・非難中傷・毀誉褒貶のない人

   が何の役に立つものか。

 

※沙汰(さた)は、うわさとか評判のこと。歌の意はおのずから明らかである。蔡温(さいおん)・具志頭親方文若(ぐしちゃんうぇえかたぶんじゃく)は琉球の五偉人の一人。琉球王国で国王から国師(こくし)に任命された唯一の人物である。政治家として有能であったのだろう。「人の評価は全く気にすることはない」という考え方はほんとうにすばらしい。これが実行できる人は本当にしあわせである。理解はできても実行ができない人がかぎりなく100パーセントに近い。

 

41:隠(かく)さてい為(す)りば

   天(てぃん)とぅ地(じ)や鏡(かがみ)

   恥(は)じかしや影(かぢ)ぬ

   写(うつぃ)らとぅ思(み)ば      (程順則)

 

41:Though we try to hide our error,

      Heaven and earth are a mirror.

      I feel ashamed to think my figure

       Might be in it, so poor!         (Teijunsoku)

 

大意:隠そうとすれば、天と地は鏡。影が写ると思うと恥ずかしい。

 

※歌意はおのずから明らかである。天と地で一つの鏡である。英訳がそうなっている。何を隠そうとしているのか、英訳では「自分の失敗・間違い」となっている。隠そうと思うのはほかにいくらでもある。それらすべてを含めているのである。英語では何を隠そうとしているのかどうしても言わなければならないが、日本語ではあえてそれを言う必要がない。言語世界の違いである。二つの言葉を持つということは、二つの世界を持つことなのである。われわれは、琉球語、日本語、英語という三つの言葉を通して、三つの世界を持つことができるのである。中庸(ちゅうよう)に、「隠れたるより見(あらわ)るるはなく、微(かす)かなるより顕(あき)らかなるはなし」とある。「error」、「mirror」、「figure」、「poor」が脚韻である。

 

42:世界(しけ)や山川(やまかわ)ぬ

   丸木橋(まるきばし)心(ぐくる)

   斯(か)にん危(あや)しさみ

   渡(わた)てぃ見(み)りば

 

42:My life here on earth resembles

      Crossing a stream by a single log.

      How precarious it has been,

      When I look back to shore!

 

大意:この世界は山川の丸木橋のようである。こんなにも危険だったのか、渡ってみれば。

     

※丸木橋は、英訳にあるように、「一本の丸太」の橋である。現在、このような橋は公園とか庭園にしか見られない。昔は普通にあったのであろうが、よく考えるといつ落ちてもおかしくはない。つまり危険なのである。それを我々が生きている現実の世界にたとえているのである。あとからふりかえってはじめてそのあやうさにきづくのである。私自身もこれまでよく生きてこられたなあと思うことがしばしばである。

 

43:有(あ)てぃん喜(ゆるく)ぶな

   失(うしな)てぃん泣(な)くな

   人(ふぃとぅ)ぬ良(ゆ)し悪(あ)しや

   後(あとぅ)どぅ知(し)ゆる

 

43:Never be too glad when you Have;

      Never be too sad when you Haven’t.

      The true worth and depth of a man

       Is only know in time.

 

大意:有っても喜ぶな、失っても泣くな。人の良し悪しは後にこそわかる。

 

※歌意はおのずから明らかである、と言いたいが、「何を」を失うかが問題。読者におまかせ、ということだろうか。現代ならばまっさきに「お金」が目にうかぶだろう。お金のことで人にだまされることはあまりに多い。英訳では、「Have」、「Haven’t」となっている。あえて大文字になっているが、「have,have not」と言えば、やはり「お金」のことである。お金以外にあてはまることもたくさんある。たとえば、「友情」、「信頼・信用」、「名声」、「地位」などである。これらは、やはり人間関係に左右される。「人間関係によって得られたものは、人間関係によって失われる」ということである。「in time」には、「やがて、ちょうどよい時」などの意味がある。今現在持っているものは、やがて、ちょうどよい時に失うのである。

 

44:瓦家頂(からやつぃじ)登(ぬぶ)てぃ

   真南(まふぇ)向(ん)かてぃ見(み)りば

   島(しま)ぬ浦(ら)どぅ見(み)ゆる

   里(さとぅ)や見(み)らん

 

44:Up from the roof of my tile-kiln

   I look over to the due south,

Only to find my home seashore!

Where is my plighted love? 

     

大意:瓦屋根の上に登って真南を見ても、村の浜辺だけが見えてあの人は見えない。

 

※瓦家(からや)は、口語では、瓦家(かあらやあ)。頂(つぃじ)は、てっぺんの意。島(しま)は、村のこと。島(しま)ぬ浦(うら)が、短縮されて、島(しま)ぬ浦(ら)、となっている。この歌は、婚約者がいるにもかかわらず、朝鮮人の陶工と無理やり結婚させられた女性の歌らしい。「plighted love」は、「結婚の約束をした元恋人」の意であろう。「love」は女の恋人であるから「lover」でよかったと思う。現在では、「lover」はおもに「男の愛人」という意味で使われるらしい。国王の命令により別の男と結婚したにもかかわらず、瓦屋根の上に登って元婚約者のいるであろう村を見ているのである。

 

45:誰(たる)ゆ恨(うら)みとぅてぃ

   泣(な)ちゅが浜千鳥(はまちどぅい)

   会(あ)わん連(つぃ)り無(な)さや

   我身(わみ)ん共(とぅむ)に

 

45:Whom are you reproaching, plover?

      Of what are you complaining so?

      Your loneliness and matelessness

       I also share with you.

 

大意:誰を恨んで鳴くのであろうか浜千鳥。会えない寂しさつらさは私も同じである。

 

※誰(たる)ゆ、の「ゆ」は共通語の「を」にあたり、目的格をあらわす。「ゆ」は詩語である。浜千鳥は、浜にいる千鳥のこと。千鳥(ちどり)は、チドリ目チドリ科の鳥の総称。

「連(つぃ)り無(な)さ」は、共通語の「連れない」とは意味が離れているようだ。文字通りの意味で、「連れがない」のである。英訳では「matelessness」となっている。「mate」は「連れ」、「lessness」は「〜がないこと」の意で、全体で「連れがないこと」となる。「matelessness」は、オクスフォード英語辞典:OED(全13巻)には載っていない。平良文太郎の造語だと思われる。この歌は妻を失った男の作らしい。

 

46:伊集(いじゅ)ぬ木(き)ぬ花(はな)や

   彼(あ)ん清(ちゅ)らさ咲(さ)ちゅい

   我身(わみ)ん伊集(いじゅ)有(や)とぅてぃ

   真白(ましら)咲(さ)かな

 

46:Fair flowers on the iju-tree,

      Your beauty now is in full bloom.

      O that I were an iju-tree,

       A-blooming white like snow!

 

大意:伊集の木の花はあんなに美しく咲くのか。私も伊集の木のように真っ白く咲きたい。

 

※伊集(いじゅ)は、広辞苑に載っていて、和名は、「姫椿(ヒメツバキ)」だそうだ。沖縄人でこの花を見たことのない人はいないだろう。名前を知らないだけである。この花を初めて見た人は、かならず、1、2句目を実感することだろう。咲(さ)ちゅい、の「い」は疑問の助詞である。咲(さ)かな、の「な」は、動詞の未然形に接続して希望をあらわす助詞である。英訳琉歌集では、伊集が「nju」となっているが、これは口語である。「iju」でいいと思う。音節数も8音である。「n」を1音節とするのは英語では無理がある。この歌は恋がたきを伊集の木にたとえたものらしい。せめて心だけは純粋で美しくありたいということなのだろう。

 

47:沙汰(さた)が為(し)ち呉(くぃ)ゆら

   眠(にぶ)る夜(ゆ)ん覚(さ)みてぃ

   傾(かた)ぶちゅる月(つぃち)どぅ

   伽(とぅじ)に為侍(しゃび)る

 

47:Is it because you talk of me

That wide awake I lie all night

With the moon for my sole comrade-

 Till it is setting now?

 

大意:私のうわさ話をしてくれるだろうか。眠るべき夜に寝覚めて、傾いている月をこそ

   話の相手にしよう。

 

※沙汰(さた)は、共通語とは意味が離れていて、「うわさ話」のこと。伽(とぎ)は、共通語と全く同じ意味で、夜のつれづれをあかす話相手である。月を話相手にするのは、昔の人には日常普通のことだったと思う。「comrade」はスペイン語で、「同室の仲間」の意。

     

48:月(つぃち)や月(つぃち)とぅ思(む)てぃ

   他所(ゆす)や眺(なが)みゆら

   我身(わみ)や暮(く)らさらん

   秋(あち)ぬ今宵(くゆい)

 

48:Are other people looking up

      Just for pleasure at the full moon?

      Despite the harvest moon tonight

       My heart sinks into groom.

 

大意:人は月をただの月だと思ってよそを眺めているのだろうか。私はこの月を眺めては

   いられないほどの秋の今宵なのだ。

 

※思(む)てぃ、は音数のために、思(うむ)てぃ、の「う」が省略されている。作者は月を眺めていられないほどの精神的な状況にあるということだろうか。月を眺めるほどの余裕のある人は月を眺めたりはしないということだろう。

 

49:恨(うら)む比謝橋(ひじゃばし)や

   情(なさ)き無(ね)ん人(ふぃとぅ)ぬ

   吾(わん)渡(わた)さとぅ思(む)てぃ

   架(か)きてぃ置(う)ちぇら       (吉屋ツル) 

 

49:O you hateful bridge of Hija!

      Were you built by heartless people

      Merely to hurry me across

       On to that curst quarter?         (Churuu Yushiya)

 

大意:恨みに思う比謝橋は情ない人達が私を渡そうと思って架けて置いたのか。

 

※英訳琉歌集では2句目と3句目が入れ代わっている。上が広く知られている通りの歌のようである。ただのミスなのかあるいは何か意図があるのか。英訳では、通常通りの順番である。作者は吉屋鶴(ゆしやちるう)、女流歌人である。吉屋は遊女屋の名前である。金城哲夫監督の「吉屋チルー物語」をユーチューブで見ることができる。貧しい農民の娘である「チルウ」が那覇の遊女屋に売られていく途中に比謝橋がある。そこでの歌である。経緯が分かれば、歌意はおのずから明らかである。

 

50:稲(ぃんに)ぬ穂(ふ)ん有(あ)らん

   粟(あわ)ぬ穂(ふ)ん有(あ)らん

   輩(やかり)読(ゆ)む鳥(どぅや)が

   掛(か)かい縋(すぃが)い       (吉屋ツル)

 

50:I am neither the ears of rice

      Nor those of the German millet.

      Why you greedy sparrows gather

       Around and about me?         (Yushiya)

 

 

大意:稲の穂でもない粟の穂でもない。ずうずうしいやつらが、やかましい鳥のようにい

   ろいろちょっかいを出してくる。

 

※輩(やかり)は、ずうずうしいやつの意。読(ゆ)む鳥(どぅや)あ、は鳥をののしっていう語。吉屋鶴(ゆしやちるう)は遊女である。いろいろと言い寄ってくる客を、稲・粟の穂を突っつく鳥にたとえたのである。なお、吉屋鶴(ゆしやちるう)は8歳の時に売られ、18歳でなくなっている。遊女の名前を自分の名前としなければならない人生は、私には想像ができない。

 

51:浅(あさ)ましや浮世(うちゆ)

   他所(ゆす)ぬ上(ぅうぃ)や知(し)らぬ

   我身(わみ)や此(く)ぬ世界(しけ)に

   一期(いちぐ)とぅ思(む)てぃ       (吉屋ツル)

 

51:I know not how others may feel;

      But how shameful and mean I am

      To cling to this wretched life

       Ever and evermore!            (Yushiya)

 

大意:浅ましいこの世、よそ様のことは知らないが、私はこの世界が一度だけだと思って

   いる。

 

※一期(いちご)という言葉以外むずかしくはない。一期一会(いちごいちえ)の一期である。「一生」、「生涯}の意である。仏教的な考えでは、人間はまたこの世に生まれ変わってくる。何に生まれ変わるかは分からないが、とにかく生まれ変わる。吉屋は、「この世には一回かぎりで二度と生まれ変わりたくない」と思っていると私は解釈する。「どのような境遇に生まれ変わることができたとしても、この世界には二度と生まれ変わりたくない」と思っていると解釈したいのである。吉屋ツルの人生にはそれほどに救いがなかったのだと解釈したい。吉屋は琉歌によってその存在を証明した。存在さえも知られずに吉屋のような人生を終えた人がほとんどだったのである。私はそのような人たちにこそ関心を向けなければならないと思う。

 

52:頼(たぬ)む夜(ゆ)や更(ふ)きてぃ

   音連(うとぅづぃ)りん無(ね)らん

   一人(ふぃちゅい)山(やま)ぬ端(ふぁ)ぬ

   月(つぃち)に向(ん)かてぃ         (吉屋ツル)

 

52:Without a sign of your coming,

      This appointed night has advanced.

      My sole company is the moon,

      Hanging sad over the hill.         (Yushiya)

 

大意:約束の夜は更けて、何の気配もない。一人山の端に浮かぶ月に向かっている。

 

※頼(たぬ)む、は、「約束している」という意味であろう。音連(うとぅづぃ)り、は字の通りの意味で、人が訪ねてくる時に連れてくる音のことである。「訪れ」の語源はそうであるらしい。歌意はおのずから明らかである。吉屋にもそのような男の人がいたのである。

 

53:月(つぃち)や昔(んかし)から

   変(か)わる事(くとぅ)無(ね)さみ

   変(か)わてぃ行(い)く物(むぬ)や

   人(ふぃとぅ)ぬ心(くくる)

 

53:Constant is the change of the moon

      From the first beginning of time.

      Inconstant and fickle are the minds

       Of us human beings.

 

大意:月は昔から変わることはない。変わって行くものは人の心である。

 

※これほど明解な歌はない。皮肉なことに、意味がよくわかる歌に、それほどの深い意味はない。無(ね)さみ、の「さみ」は、「〜なんだよ」という意味の助詞。ほかは大和言葉とそれほど変わらない。

 

54:今日(きゆ)や何(ぬ)が有(や)ゆら

   心(くくる)浮(う)かさりてぃ

   急(いす)ぢ浜(はま)降(う)りてぃ

   布(ぬぬ)ゆ晒(さら)す

 

54:I know no reason, but somehow

      I feel restless and drear today;

      In haste I go down to the spring

       And wash those gift-garments.

 

大意:今日はなぜか心が浮き浮きして、急いで井戸に行って着物を洗う。

 

※心(くくる)浮(う)かさりてぃ、は、文字通り、「心が浮き浮きして」の意味だと思う。浜(はま)は、井戸(かあ)を詩的に表現したものか。晒(さら)す、も詩語のようである。「急(いす)ぢ井戸(かあ)降(う)りてぃ着物(ちん)洗(あら)ゆん」では歌にならないのであろう。布(ぬぬ)ゆ、の「ゆ」は共通語の「を」にあたる助詞である。日常のなんでもないような出来事を歌にしたもので、私には俵万智(たわらまち)風に思える。

 

55:里(さとぅ)が呉(くぃ)召候(みしょ)ちゃる

   御情(うなさ)きぬ布(ぬぬ)や

   晒(さら)す数毎(かじぐとぅ)に

   清(ちゅ)らく成(な)ゆさ

 

55:The garments you presented me

      In token of your precious love,

      Become fairer and finer still

       Every time I wash them.

 

大意:あなたがくださった大切な着物は洗うたびにきれいになるのですよ。

 

※里(さとぅ)は、女性の側からの男性の恋人。召候(みせえ)ん、は「〜なさる」という意味の敬語。布(ぬぬ)は、着物の詩語だろう。晒(さら)す、は「洗う」の詩語だと思う。成(な)ゆさ、の「さ」は、述べることを相手に対して軽く強調するための接尾辞。愛する男性に対する気持ちが伝わってくる歌である。

 

56:宵(ゆい)ん暁(あかつぃち)ん

   慣(な)りし面影(うむかぢ)ぬ

   立(た)たん日(ふぃ)や無(ね)さみ

   塩屋(しゅや)ぬ煙(ちむり)

 

56:A day doesn’t pass but that, in mind,

      Faces familiar to me rise,

      Like the salter smoke of Shuya

       In the morn and even.

 

大意:宵も暁も慣れ親しんだあなたの面影が立たない日は無いのですよ。塩屋の煙が立た

   ない時でも。

 

※面影が立つのと、煙が立つのを掛けている。面影が製塩所の煙のようにいつも立っていいるということなのだろう。塩屋は文字通り製塩所のことである。それが地名にもなった。昔の塩屋の煙は絶え間がなかったのであろうが、その塩屋の煙が立っていない宵や暁にもあなたの面影は立っていると言いたいのであろう。この歌は、高宮城親雲上(たかみやぐすくぺえちん)作の組踊、「花売之縁(はなうりのえん)」に登場する。

 

57:旅(たび)や浜宿(はまやどぅ)い

   草(くさ)ぬ葉(ふぁ)どぅ枕(まくら)

   寝(に)てぃん忘(わすぃ)ららん

   我親(わや)ぬ御側(うすば)

 

57:Far from home I sleep by the sea

      With grassy weeds for my pillow.

      On the lonely sands I pine for

       My sweet parental home.

 

大意:旅は浜辺の宿。草の葉が枕。寝ていても忘れられない親のそば。

 

※歌意はおのずから明らかである。我親(わうや)が、音数上、我親(わや)、となっている。「我親(わうや)ぬ側(すば)」、でもいいと思うのであるが、どうしても、「御側(うすば)」としたいのである。親への愛情が切実である。昔の人は自分の親に対してもきちんと敬語を使ったのである。

 

58:旅宿(たびやどぅ)ぬ寝覚(にざ)み

   枕(まくら)側立(すばだ)てぃてぃ

   思出(うびじゃ)すさ昔(んかし)

   夜半(ゆふぁ)ぬ辛(つぃら)さ

 

58:Waking at midnight, far from home,

Twisting in bed, punching the pillow,

I remember past days at home

And feel sad and lonely.

 

大意:旅宿の寝覚め。枕をそばだてて思い出す昔。夜半のつらさ。

 

※歌意はおのずから明らかである。旅宿にかぎらず私の場合毎日がそうである。「twisting in bed(ベッドで身をよじる)」、「punching the pillow(まくらをげんこでなぐる)」、同じ音数で英語はこれだけの表現ができる。英訳は英語による歌の解説でもある。英語が理解できる人は、琉歌をより深く理解できるのである。辛(つぃら)さ、が「sad and lonely(かなしくてさびしい)」と訳されている。日本語:琉球語は、言いたいところをあえて言わない、あるいは遠回しに言う、あるいは省略する、そういう言語なのであろう。

 

59:渡海(とぅけ)や隔(ふぃじゃ)みてぃん

   照(てぃ)る月(つぃち)や一(ふぃとぅ)つぃ

   彼(あ)まん眺(なが)みゆら

   今日(きゆ)ぬ空(すら)や

 

59:We’re apart with a sea between

But the same moon shines upon us.

You may be looking at the moon.

Thinking of me tonight.

 

大意:海を隔てても照る月は一つ。あなたも眺めているでしょうか今日の空を。

 

※渡海(とぅけえ)は、海を渡ることであるが、渡る海、海そのものもいう。「a sea」となっているのは、海全体ではなく海のある一部分だということであろう。英語は厳密な言語のようだ。彼(あ)ま、は二人称の敬称である。彼(あ)まん、の「ん」は、「も」が変化した語である。

 

60:柴木(しばき)植(ぅうぃ)てぃ置(う)かば

   屡屡(しばしば)とぅ居参(いも)り

   真竹(まだき)植(ぅうぃ)てぃ置(う)かば

   又(また)ん居参(いも)り

 

60:If I plant here many a lime,

Serenade me many a time.

If I plant for you a lily,

Come to see me daily.

 

大意:柴木を植えて置いたら、しばしば来て下さい。真竹を植えて置いたら、またも来て  

   下さい。

 

※これはいわゆるおじさんギャグである。柴木(しばき)だから、「しばしば」で、真竹(まだけ)だから、「またん」である。柴木(しばき)は、「藪肉桂(やぶにっけい)」のことらしい。居参(いも)り、は「いらっしゃい」の意。「し」と「ま」が頭韻であり、「ば」と「り」が脚韻である。英訳は名訳である。「a lime」と「a time」、「lily」と「daily」が見事であり、すばらしい脚韻である。「lime」は「果実のライム」のこと。「ライムを植えたら時を見て来てください」、「ユリを植えたら毎日来て下さい」となる。「ライム」の場合ただ来るのではなく、「serenade(小夜曲)」を歌ってください、とある。「serenade」はこの場合、他動詞である。これだけ見事に訳しながら、音節がきちんと、8・8・8・6となっている。平良文太郎の英語力はこのひとつの琉歌の英訳を見ただけでじゅうぶん知ることができる。